都萬神社(妻萬神社)
都萬神社は、日向五郡(臼杵、児湯、那珂、宮崎、諸県)の各郡に一社ずつ設けられた「日向五社大明神」の1つで、大崎町の一の宮として昔から大切にされてきました。もともとは、有明町原田にあったものが、1540年に移されたものです。祭神は、「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)」「立述主命(トコシロヌシノミコト)」です。ここには、国指定文化財の銅鏡・籬二菊雙雀文様をはじめとして、重要な文化財が奉納されていました。現在は、大崎町郷土資料室で管理・保管されています。
見どころの一つとして、本殿に施された干支の彫刻があります。干支は方角でも表すことが出来ますが、この神社は一般の向きと異なり、その理由は不明だそうです。また、都萬神社は縁結びとしても知られていて、本殿の両側の屋根付近に逆向きの♡があるのも隠れたポイントでもあります。
縁結びの他にも、安産、子育て、と女性に縁の深いご利益のある神社として信仰されています。
所在地 | 鹿児島県曽於郡大崎町假宿1589 |
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連絡先 | 都萬神社 TEL/099-476-0588 |
アクセス | ・野方インターより県道64号線を経由して、車で約20分 ・志布志港より国道220号線と国道448号線を経由して、車で約20分 |
駐車場 | 10台 ※大型バスは旧道への進入が禁止の為、不可 |
その他周辺の見どころ
都萬神社旧参道跡
現在は国道220号線によって寸断されていますが、都萬神社鳥居から国道を挟んで見える直線道路は、かつての参道跡です。
その通りには、大崎郷時代の特徴である軽石を組んだ石垣が残っています。
また、魔物の侵入を防ぐ魔除けを意味する石敢当(せっかんとう)の碑が三叉路に建てられています。
心慶寺跡
大崎城主肝付兼光※が文明年間(1470年頃)に建立。心慶寺は福山町の大安寺末寺の禅宗曹洞宗で、本尊は釋迦如来です。
兼光は文明15年(1483年)に死去した後、心慶寺に葬られました。その墓が子孫の領地変移に伴い、溝辺、喜入と移されたとき、心慶寺は一旦没落。その後、亀庵抱和尚により大崎郷の菩提寺として再興され、明治の廃仏毀釈で壊されるまで続きました。
墓地内には、歴代住職の一世、四世、六世、七世のお墓が残っています。
※肝付兼光(きもつきかねみつ)…室町時代の武将で、肝付本家第12代兼忠(かねただ)の三男。兄弟の不仲により、島津氏の家臣となり、1470年に大崎城を築城。
西南の役官軍本営跡
明治10年に三文字地区で始まった前哨戦で敗れた薩軍がこの本営を捨て菱田方面へと退却。その後に官軍がこの本営を占拠しました。
七夕地蔵
月笑寺の5代目住職禅勇健剛和尚が、お盆を前に地蔵尊にお参りをし精霊を迎えようと「精霊迎え」を七夕市に来る人々に呼びかけたことが始まり。地蔵は廃仏毀釈で壊されてしまいましたが、大正8年に地元有志の方々によって再建され、現在の場所に設置されました。
壊された地蔵尊も月笑寺跡近くに残っており、現在は地元の石材屋さんによって顔が新たに取り付けられています。
月笑寺跡
江戸時代初期に創建された心慶寺の末寺(隠居寺)。
心慶寺のすぐそばにありましたが、参詣人も少なくさびれていくところに、何とかしようと4世竜山和尚は説教に努めました。
5代目住職禅勇健剛和尚もまた何とかしようと、目を付けたのが七夕市に出掛ける人々。地蔵尊にお参りする「精霊迎え」を呼びかけたことで、七夕市に来る近隣の人々が 月笑寺にも線香をたむけ、お参りするようになりました。
明治の廃仏毀釈により廃寺となりましたが、5代目住職禅勇健剛和尚のお墓が今も残っています。